第112回
「黒田清隆」
ゴールデンウィークに、五稜郭のある函館を訊ねた。
函館の地は、まだ肌寒く桜も蕾のままで、日本列島で唯一、稲作文化が根付かなかった極東の地を感じた。五稜郭は星型の平城で、箱館戦争(1869)で旧幕府の榎本武揚と新撰組最後のサムライ土方歳三が、独立王国を夢見て、新政府軍を指揮する黒田清隆との戦いに敗れ、幕末の終焉を迎えた舞台である。
この戦いを制した黒田清隆は、激動の維新の時代を生きぬき、第二次内閣総理大臣まで上り詰め、旧五千円札にまでなった人物だ。興味を覚えその足跡を追ってみた。
黒田清隆は1840年、薩摩の下級武士の下で生まれ、薩摩藩藩士として育った。黒田清隆を有名にしたのは、西郷隆盛と桂小五郎の薩長同盟を実現させたことによる。その後、幕臣幹部の中心の人物として、幕末の最後まで戦線の現場に立ち続けた人である。箱館戦争を制した黒田清隆は、その後北海道長官に就任した。
黒田清隆は、北海道の経営にあたり、「開拓基本構想を描くには、開拓の国アメリカを参考にすべき」と考え、自ら渡米し、アメリカ政府の現役農務長官・ホーレス・ケプロン氏を北海道の事業構想策定のリーダーとして、ヘッドハンティングした。そして、このケプロン氏に、北海道の基本構想を委ねたのである。
その後、このケプロン計画に基づき基盤整備事業をスタートさせたが、たちまち支出超過を招き、破綻してしまった。何故こんなにもろく、ケプロン計画が破綻したのか?その疑問を感じ、札幌北海道大学の資料館を訪ねた。
黒田清隆が招いた、ホーレス・ケプロン氏のキャリアを調べてみると、シナリオを描く人でなく、決断して組織を運営する企業家タイプの人間像が見えて来た。ケプロン氏によって、北海道開拓の青写真を描く為に投じた資金と彼自身の年棒は、途方もない金額であり、北海道を最大級に賛美した壮大な内容のケプロン計画を実行するには、当時の明治新政府の財力では、とても実行できる内容ではなかった。
「移民による農業で繁栄を極めたアメリカに学べば、きっとうまくいくだろう」と考えた黒田清隆の考えは、間違っていなかったと思えるが、北海道の未来のシナリオを託す人材としては、結果的にケプロン氏は人選ミスであったと思えた。
今日の、夕張市を始めとし、北海道の経済は厳しい状況が続いている。そのルーツは、北海道開拓のスタート時、創業のDNAを創造できなったところにあるのかも知れない。
新たな事業を始める時、三種類の人材が集わなければ、うまくいかないケースが多い。その構成は、Value Creator ビジネスモデルを考える人、Excellent Player オペレーションの達人 Excellent Managerビジネスをトータルに管理する人である。こういった経営人材チームが、理想のベクトルに向かって団結すれば、想いが形になって行く。
Excellent Player黒田清隆が、Excellent Managerのホーレス・ケプロンを迎えても、ケミストリーが起きなかったのは、自然の流れだったように思えてくる。
百年前、本来の北海道の土地の力を生かし、文化を継承させるビジョンを示すアントレプレナーが、前段のような経営人材チームを創っていたなら、北海道はデンマークを越える「世界の北海道」として輝いていたかもしれない。