column

コラム

第192回

「推しの力」

なんだかんだと時は過ぎ、マスク下のこもった声での会話や、画面に映る己が姿に驚愕&落胆しつつも、精いっぱいの気持ちでお話をするという事や、レジ前やエスカレーターで自然と距離を保ったり、あちこちで頻繁にアルコール消毒したり、外食は極力少人数にしたり等、慣れるというより何か妙な気持ちは底の方に沈めたままの新しい日常が続き、未来への明るい情報にもそう巡り合わない中、「推し」について特集した情報番組に元気の素になるヒントを頂いた。

そもそも推しとは、推しメン、つまり好みのグループやチームの中のメンバーの一人を特別に扱うという推しているメンバーの略で、昨今はそれをも略して「推し」というらしい。

その昔は、単純にファンといっていたが、ファンよりも特別な意味合いがあるようだ。

誰かを、何かを好きになるのは、とてもいい事だ、特に尊敬の気持ちも込められた推しの感覚は自らをも鼓舞できる活力につながる。番組内で取材された女性の一人は「人生に無駄なんてない」というあるグループの推しメンの言葉で年齢に臆せず大学に通って資格を取得し、理想の仕事を持たれ輝かれていた。

元来の資質もあると思うが尊敬に値する好きは、人生も変えるということだ。

そういえば、私も半世紀を超えてファンを続けている、今でいう推しメンのおかげで、事あるごとの孤独感や劣等感や無気力感を脱してきたのを思い出した。

曲調が好きであることは間違いないが、その在り方も推しが止められない理由だ。

若年の時は、単純にその音楽性やステージのパフォーマンスに興じていたのだが、時を経て共に中年、老年になっていくにつれ、その自由で力強い生き様や、ひいては、ミュージシャンの領域を超え、企業の経営者としても素晴らしい能力を持っている事に畏敬の念をも抱いている。

世界には名だたる著名なグループがあったが、彼らは50年を超えても解散をしていない。

その間、業界にありがちなスキャンダルやゴシップやデンジャラスな出来事に合いながらも、私の推しは、メインヴォーカルとしての役割だけでなく、経営者としてマネージメントをこなしつつ楽曲を送り出し、世界中でコンサートツアーを続けた結果、メンバー共々潤沢な資産を持ち、アラ80になっても現役を貫いている。私にとっては、まさに神としか思えない人物なのだ。

とはいえ、私は遠い国から折に触れ感動している一ファンにすぎないが、人間は年を重ねても、精神の衰えがなければ、可能性は続くということを現実に見て、教えの一つとしている。

ちなみに精神の衰えとは喜びの見つけ方が下手になるという事だと私は思っている。その勝手に思っている教えのお陰もあるのだろうか、私は、なんにでも興味をもってしまう。にもかかわらず情けなくも生半可なままで終わる事ばかりだが。

しかし、ニーチェ曰く。「楽しみというのは、常に半可通の人の手にある」と。

つまり、知ったばかりの時が一番気楽に楽しめるという事だ。そして、「興味から達人になって、何かの誰かの役に立つ日が来るかも」との補足付きだ。

半可通とは、知ったかぶりのことなので、他人には面倒な人間だが、それでも私はこれからも、あらゆる事に興味を持って精神を衰えさせずに日々を過ごすつもりだ。それにしても、推しは人生をお得にしてくれると思う。推しの力は元気や勇気の素になるとも思う。

なので、こんな先の読めない日々だからこそ、遠い世界の有名人だけでなく、身近なパートナーでも、友達でも、仲間でも良いから、自分なりの「推し」を見つけて、その言動や生き方を、素直な気持ち、そう、素直に受け止めて自分が生きるヒントにされることをお勧めする。

いないより、いた方が数倍楽しく日常が送れるからだよ。絶対に。

コラムを毎月メルマガでご購読